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地域への貢献

事業を興して収益を上げたならば、その一部を社会へ還元するのは事業家の務めであろう。私は社会への恩返しの気持ちで地域への貢献をささやかながらやってきたつもりである。私は、自分ができる範囲内で何件か寄付させてもらったのだ。また金には代えられない地域活動もしてきた。これらの行為を私は鼻に掛ける気持ちはさらさらないが、後進のために、幾つかの感謝状を通して、その足跡の一端をとどめておきたいと思う。

私の子供は六人いるが、子供たちは名護市東江小学校出身である。東江小学校創立八十五周年を迎えた際、記念事業資金として寄付したが、一九六八年(昭和四十三年)五月、仲宗根善行校長、山端浩記念事業期成会長は連名で感謝状を授与した。私は同市城大通り会が標榜する「明るく美しく住みよい町づくり」を目指して、通り会の副会長を二期務めてきた。この功績がたたえられ、七一年(昭和四十八年)十一月、城大通り会(利根一夫会長)から感謝状をいただいた。また、このころ城大通りにはまだ街路灯が設置されていなかった。夜は暗く、区民は長い間、街路灯の整備を望んでいたが、幸い町当局(当時)の補助金と区民の芳志で街路灯が設備された。私も通り会の一員として、物心両面にわたり協力したため、七一年(昭和四十六年)十二月、城大通り街燈設置委員会(新田宗俊会長)から感謝状を授与された。

東江小学校が児童生徒の情操教育の一環として、自然を大切にする心をはぐくもうと洋式の庭園造りを企画した。私は庭造りに必要な樹木や石岩を運搬するために、わが社のレッカーを出動させるなど、全面的に協力した。庭園は学校側とPTAの協力で完成した。沖縄が本土復帰した時期の一九七二年(昭和四十七年)五月、東江小学校(宮城盛雄校長)、同小学校PTA(比嘉栄明会長)の連名で感謝状をいただいた。感謝状には「この芝生園(庭園)のもつ教育的意義は深く、かつ大なるものがあります」と記述されている。

私も当時、四十八歳と働き盛りで、子供たちのためにと頑張ったものである。そのころ、同小学校に在学していた私の子供は四女の京子、五女のみちる、長男の雅之三人だった。

東江小学校の体育館建設に合わせて、内部の設備のを充実させる必要があった。私もその趣旨に賛同し、学校に寄付した。七五年(昭和五十年)六月、東江小学校(中村正己校長)、体育館建設期成会(大城森男会長)は連名で感謝状を授与した。

城大通り会の副会長を二期務めてから十年後に会長職の大役をおおせつかった。私は十代目の会長だった。私なりに全力を尽くしたことに対し、「会員相互の親睦と福利増進を図り、通り会の進展に貢献した」として、八四年(昭和五十九年)六月、城大通り会(渡具知武朝会長)から感謝状をいただいた。

戦前、北部地方の川には魚やエビなどが棲んでおり、子供たちは水遊びしながら釣りをして楽しんだ。
その幸地川を昔のような清流にしよう、と取り組んでいる自然保護団体があり、私は運動に賛同する立場から同団体を支援した。九二年(平成四年)四月、幸地川を蘇生させる会(富名腰春子会長)から感謝状を授与された。

地域への貢献事業は個人レベルから会社レベルのものまで、いろいろある。名護市城の区民会館建設に当たっては、合資会社上間鋼材(当時)として建設費の一部に、と寸法を寄せた。九四年(平成六年)十一月、城の区民会館建設期成会(山入端信博会長)から感謝状が贈られた。

これは一身上のことだが、私は日本クレーン協会沖縄県支部の役員を長い間、務めたことがある。このため支部設立二十五周年を記念し、同県支部(石川逢重支部長)は九九年(平成十一年)四月、記念品と感謝状を授与した。

二〇〇〇年(平成十二年)七月、沖縄で主要国首脳会議(沖縄サミット)が開催された。厳戒な警備体制が敷かれ、有限会社ユーテックは社を挙げて警護活動に協力した。サミット閉幕後の同年八月、名護警察署(比嘉正輝署長)と名護地区地域安全協力会(仲泊弘次会長)は連名でユーテックに感謝状を授与した。

また、これは長男・雅之のことだが、雅之は名護市商工会青年部の部長時代、沖縄サミットの成功に向け、持ち前の企画力と行動力をもってサミットに協力した。このため、二〇〇一年(平成十三年)五月、部長退任に際し、同市商工会(荻堂盛秀会長)から感謝状を授与されたことも付記しておきたい。

私は我部祖河出身である。集落の豊年祭は私の楽しみの一つだ。私は我部祖河に生まれたことを誇りに思っているし、これからも生まれ故郷を大切にしていきたいと思う。かつて我部祖河には恩返しとして舞台幕を公民館へ寄贈したことがあるが、今後も側面から応援し、協力をしていくつもりだ。最後に「自分史」を締めくくるに当たり、改めてわが故郷・我部祖河に発展あれ、と祈念するものである。





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