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城区と共に

現在の会社の礎を築いたのは、名護市城区にあった上間金物店である。その折々に触れたが、上間金物店を立ち上げたのが一九五七年(昭和三十二年)。営業拡大と同市大北への会社移転に伴い、城区の金物店を閉めたのが一九九二年(平成四年)十二月だったので、実に三十五年間、城区で仕事と生活を送ったことになるのである。まさに公私共に城区とのかかわりは深い。

今住んでいる住宅は、島の隣の同市東江だが、私の人生は城区を抜きには語れないので、ここで城区とのかかわりについて少し触れておきたい。行政区としての城区の名は、名護城に由来する。発祥は二百五十年前で、名護城に住んでいた人々が平地を求めて移り住んだという。戦前は東江、大兼久と一緒に「名護三力」と呼ばれるほど、大きな集落を形成していた。戦後は一九六六年(昭和四十一年、三九一世帯一九七六人)をピークに人口は減少の一途をたどっている。行政区の面積が小さく、住宅建設がままならないのが大きな理由だ。二〇〇三年(平成十五年)現在の人口は五八〇人(一七〇世帯)である。

城の主な行事の一つに旧暦の九月九日に行われる豊年祭がある。名護城にある御獄で祈願したあと、種々の芸能を奉納するが、私はこの豊年祭について、いろいろと協力してきたつもりだ。一九九六年(昭和六十一年)四月以来、長期にわたって区長をしている山入端信博さんは「家族みんなで応援、協力していただいた」と述べている。気恥ずかしい思いもあるが、区長のまじめなコメントとして素直に受けとめたい。また雅之も区の青年会長を務め、彼なりに区の発展に尽力した。このことは周辺の人々が認めるところである。 さて、区には劇作家の比嘉宇太郎氏がいる。戦前、新聞記者をして戦後、名護町長や立法院議員など務めた方で、豊年祭における組踊上演では多くの作品を書き上げ、区民を大いに歓喜させたことで有名である。作品に「許田の手水」「シガマ森」「ヒートゥドーイ」などがある。

私の家族がかかわった豊年祭の芸能には組踊「銘苅子」と「国頭サバクイ」がある。「銘苅子」は玉城朝薫が創作した組踊五番の一つで、羽衣伝説を舞台化したもの。その天女の役をしたのが二女の明美だった。親ばかと言われるかもしれないが、明美の演劇には感激を覚えたものである。三〇〇人ほどの区民も温かい声援を送ってくれ、うれしかった。

「国頭サバクイ」は、昔、国頭地方で伐採した材木を首里王府まで運ぶ際に歌われたといわれる労働歌・踊りである。サバクイは地方役人の職名。「国頭サバクイ」は、サバクイの指揮の基に多くの男女がきつい運搬作業に従事させられた史実に基づき、芸能化されたものだ。城の「国頭サバクイ」は名護の桜祭りの行事にも出演するほど有名である。私は「城国頭サバクイ保存会」が設立された際、副会長を務め、保存に努力したものである。「国頭サバクイ」が演じられたのは百年前ともいわれ、歴史は古い。名護市に残るこの芸能を我々の世代で終わらせてはいけないと思う。ヤンバルの人たちの苦悩の歴史を歌や踊りで伝えることは、教育の面からも意義があるのではなかろうか。

「国頭サバクイ」に関して、私は出演者の衣装を準備する「衣装担当」を任せられた。目に見えない裏方の仕事だったが、私なりに頑張ったつもりだ。私たちの地道な努力は認められ、一九九六年(平成八年)十一月、「地域文化の振興に寄与した」として沖縄県文化協会(池原貞夫会長)から保存会へ感謝状が贈られた。

区の公民館は地域の人たちにとって、唯一の交流の場である。公民館の備品の充実は大切だ。一九九四年(平成六年)、公民館の新築に伴い、合資会社上間鋼材は舞台幕を贈呈した。またガジュマルの大木も寄贈したが、これは台風の影響を受け、残念ながら幹は枯れてしまったが、今、傍らから新芽が伸びている。

十五年ぐらい前にはグランドゴルフ用具一式を贈ったが、これは現在も使われているという。山入端区長や大城章一さん(区老人会長)らは「老人会活動で有効に使わせてもらっている」と話している。

私は体調を崩す前までゲートボールを大いに楽しんだものである。当時、私も選手だったが、城の老人会は強かった。私が記憶するものでは一九八二年(昭和五十七年)十二月、名護市老人ゲートボール大会準優勝、八三年(同五十八年)十二月、同大会優勝、八四年(同五十九年)六月も優勝という輝かしい成績を収めている。その時の準優勝、優勝メダルは今も大切に保存している。

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