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我部祖河の豊年祭



米どころとして知られた我部祖河。戦前、我部祖河一帯は羽地田袋と呼ばれていたことからもうかがえよう。区の豊年祭は旧暦の八月八日に執り行われるが、その起源は一八八七年(明治二十年)といわれる。区の御獄で祈願したあと、組踊りや棒術など奉納したという。

我部祖河の豊年祭は一九四四年(昭和十九年)、沖縄戦で中断したが、戦後の四七年(同二十二年)に復活した。昭和三十年代に入り、豊年祭は活性化し、近隣町村から観客が訪れるほど有名となった。だが、毎年行われていた豊年祭も一九八六年(同六十一年)からは三年ごとに行われるようになり、今日に至っている。「我部祖河誌」によると、三年ごとの開催となった理由は、新生活運動や踊り手の都合によるものだという。

さて、二〇〇三年(平成十五年)九月六日、伝統の豊年祭が執り行われた。公民館前広場にはウエマ産業㈱のクレーン車が出動、大規模の天幕が張られ、ムードを盛り上げた。まず、十三年ぶりに復活したというスー巻き(潮巻き)棒が披露された。
中高校生以上の男子約五十人が声を掛け合いながら円陣を組み、全体で棒の舞いをしたあと、おのおの二人が広場中央に進み、勇壮な組手棒を披露。その度に参観者は盛大な拍手を送った。午後六時半から始まった豊年祭も夜のとばりに包まれるころから次第に熱を帯びてきた。

会場には区民や通りがかりの人たちも詰め掛け、参観者は千人に膨れ上がった。スー巻き棒のあと、舞台は公民館に移され、そこで催し物が次々と披露された。参観者は家で作ってきたご馳走をほおばりながら芸能を堪能。また出演者も日ごろ鍛えた練習の成果をここぞとばかりに遺憾なく発揮、参観者と一体となって豊年祭を盛り上げていたのが印象的だった。古里の豊年祭は実にいいものである。ここで出演者の労をたたえるため、当日行われた演目を紹介するとー。
「かぎやで風」▼獅子舞▼組踊「長者の大主」▼「女花笠」▼「上り口説」▼大正琴▼日舞「黒田節」▼老人会「クェブゥ沖縄」▼「浜千鳥」▼かせかけ▼「花風」▼「下り口説」▼「谷茶前」▼「汀間当ー」▼エイサー▼日笠踊り▼「カナヨー」▼日舞「風雪流れ旅」▼「鳩間節」▼「繁昌節」▼「前之浜」▼日舞「桜の花の散る如く」▼「松竹梅」▼「万才」

いずれの演目も圧巻だった。我部祖河には芸達者の人たちが多いことに今さらながら驚かされた。老朽化が激しい公民館。この公民館での豊年祭は今回が最後となった。

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