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我部祖河の偉人

沖縄の自由民権運動家・謝花昇、移民の父の当山久三は郷土の歴史教科書に出てくる偉人である。偉人とは何か。その基準は難しいが、一生をかけて「人のため、世のために尽くす人たちである」と捉えたい。その意味では歴史に埋没した感のある名護市我部祖河出身の上間幸助を偉人として推挙し、この功績を永くたたえるべきだと考える。宿縁があって上間幸助は上間家の門中の大先輩に当たる。屋号は仲ノ屋で、一八七〇年(明治三年)一月十七日生まれの人物である。

私が偉人として推挙するのは「国政に衆議院を送り出す参政権が沖縄県にまだ与えられていなかった明治時代中期に職をなげうって謝花昇や当山久三らと共に上京、自由民権運動に参画したこと。また当時の奈良原繁県知事らの執拗な弾圧によって運動が挫折した後は、当山久三の移民事業に同調し、海外移民の初期に我部祖河からは初めてアメリカ大陸(米カリフォルニア州ロサンゼルス=明治三十五年十一月)へ渡り、自ら移民の先駆けとなって本島北部の人たちに大きな影響を与えた」などの理由からである。不幸にも志半ばにして享年三十七歳の若さで逝去したが、彼が残した功績はきちんと評価されるべきであろう。

幸助は旧羽地村の我部祖河に生まれ、一八九〇年(明治二十三年)に沖縄師範学校を卒業した。二つ年上の金武村出身の当山久三とは同期生の仲で、当山も同じ年に師範学校を卒業している。二人は対照的だ。幸助が金武小学校の訓導(教員)になったのに対し、当山は逆に幸助の出身地、羽地尋常小学校へ訓導として赴任している。幸助に関する資料は乏しく、情報も一部交錯しているが、分かる範囲内で紹介すると、幸助の家計は代々、農業を営んでいたが、暮らし向きは裕福だったという。体は小さいが、情熱的で議論好きだった。一度議論すると、相手を屈服させずにはおかないほど論理的思考を身につけていたようだ。

彼が謝花昇の運動に共鳴を覚えたのは、謝花が当時の最高権力者、奈良原知事(鹿児島県出身)と堂々と渡り合い、民権運動の必要性を訴えていたからだ。彼は謝花の主張に心を動かされ、ついに小学校の訓導を辞して、謝花の元へはせ参じ、共に行動した。「義人謝花昇伝」を刊行した作者の大里康永氏は、この幸助の行動について「官尊民卑の時代であり、官吏教員のごときはすこぶる有難がられていたのであるが、躊躇せずに職を捨てて民衆の隊伍に入ったことはすこぶる注目すべきことである」と述べている。

また大里氏は参政権運動で謝花昇が当時、内相を務めていた板垣退助らに会うため上京した際、沖縄の代表者として七氏を挙げているが、その中にも幸助はいる。大里氏の著書「自由への歩みーわが思い出の記」によると、請願運動の代表者として謝花昇を筆頭に、長田秀雄、具志保門、渡慶次一、喜納昌松、当山久三、上間幸助ら七人を列挙している。そして大里氏は幸助の活躍について、書く資料を持たないのは残念である、としながら「謝花、当山のごとく熱心に運動を続け、権勢にも恐れず、誘惑にもなびかず、大いに参政権のために努力したことは、県民の永く忘るべからざるところである」(「義人謝花昇伝」)と幸助の運動を高く評価している。

奈良原知事の弾圧はすさまじいものであった。上京中の謝花らが投宿する旅館に暴力団を差し向けて襲い、また、運動資金の財源であった機関紙「沖縄持論」の発行元、南陽社の経営を破壊するなど、運動を撲滅するために手段を選ばなかった。このため運動は挫折し、謝花は生活が困窮、職を求めて山口県へ赴く途中、神戸駅で発狂、その七年後、病死した。享年四十四年だった。

自由民権運動は挫折したが、その精神は確実に継承された。やがて沖縄でも本土同様に参政権が得られたのである。辛く厳しい道のりであったー。

自由民権運動に挫折した人のその後の人生はさまざまである。当山久三は海外への移民事業に奔走した。沖縄の移民の開始は一八九九年(明治三十二年)である。その年、ハワイへの移民で県人二十七人が沖縄を離れた。二回目は一九〇三年(明治三十六年)でハワイとアメリカ本国へ九十六人を送り出している。

幸助も移民事業に活路を見出すべく、一九〇二年(明治三十五年)十一月、学術研究を目的に米カリフォルニア州ロサンゼルスへ渡った。三十二歳の若さだった。幸助は失意の中にあって新天地を求めての渡米だったに違いない。彼のロサンゼルスでの生活ぶりはどうだったのか。「在米沖縄県人概史」によると、渡米した後輩を大事にし、よく面倒を見ていたという。また結婚せず独身だったようだ。移民から五年、幸助は子孫も残さずにこの世を去った。一九〇六年(同三十九年)九月二十七日のことである。享年三十七歳であった。

この死亡年月日は、「我部祖河誌」(平成十一年十二月発行)によるものだが、別の資料「在日沖縄県人慨史」によると、一九〇八年(明治四十一年)八月、心臓病で倒れ、ロサンゼルスのホテルで後輩らに見守られ、息を引きとったという。この場合だと、享年三十九歳となるが、真偽のほどは定かではない。異郷の地での死はどういうものだったのか、わが古里ー沖縄、そして我部祖河への思いは・・・。死出の旅路への悲しみは深い。

自由民権運動に参画した三人の生涯年齢は、謝花昇四十四歳、当山久三四十三歳、上間幸助三十七歳。あまりにも短い生涯だった。しかし、短い人生にあって「世のため、人のため」と願い、自分の信念をぶつけ、闘い、傷つきながらも、強く生き抜いたその生き方に学ぶ点は多いと思う。

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