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合資・有限会社設立





一九七二年(昭和四十七年)五月十五日、沖縄は日本復帰を果たし、新生沖縄県としてスタートした。アメリカ世から大和世への世替わりである。復帰の年の翌年(七三年)、業務を拡大するため名護市東江に東江ヤードを併設した。重機類など設置し、本格的にレッカー業務およびレッカーのリース事業を始めた。レッカーはアメリカ製のラージ(四分の三トン)、また二・五トンと五トンのレッカー二台も配置した。このレッカー事業と並行してアメリカ製のボルトや工具など金物部品を売る金物販売事業は続行した。

七二年(同四十七年)十一月、名護湾の埋め立て工事が始まった。この時には国産(タダノ、カトウ)のトラックレーン(二〇トン車)を保有するまでになっており、埋め立て工事にも参入した。我々が引き受けたのは護岸工事で護岸に大きな石を積み上げる、いわゆる「石積み工事」だった。また名護の七曲りを拡張する国道五八号の道路工事にも積極的に参加、クレーンやレッカーによる工事部門の拡大を図った。

その際の笑い話もある。我々のクレーン車などには「上間金物店」と店の名前が書かれており、本土のゼネコン(大手の総合建設会社)からは「金物店がなぜ、こんな工事現場に?」と不審がられる一幕もあった。社員も苦笑いしながら対応したようだ。

一九七五年(昭和五〇年)七月、本島北部の本部町で鳴り物入りで開催された沖縄国際海洋博覧会を挟んで七六年(同五一年)には「合資会社上間鋼材」を設立した。東江に新社屋を建設し、鋼材の加工業と販売事業に進出した。業務の効率化を期すにはコンピューター導入は欠かせない。しかし、コンピューターは当時、かなり高価だったが、業務の迅速化、省力化のために電算化する必要があったので、七九年(同五十四年)、
他社に先駆けてコンピューター導入に踏み切った。

コンピューター導入から九年後の一九八八年(昭和六十三年)五月、城通りから北へ約二・五キロ離れた所にある名護市大北に敷地を求め、金物店を新築、大北店としてオープンした。一方、同年八月には同市伊佐川にトタン成形工場を建設し、トタンの成形、販売事業にも着手した。この八八年は店舗の新築とともに、新規分野の開拓に乗り出した年だった。

幸い、資金的にも余裕があったので、さらに売り上げを伸ばそうと、業務拡張に乗り出したのである。話は前後するが、海洋博覧会の話に戻ろう。海洋博は沖縄の本土復帰を記念して七五年七月二日から六カ月間にわたり、伊江島を望む本部町で開催された。四面、海に囲まれた沖縄。その海洋資源を生かした沖縄の未来の姿を展望して、メーンテーマも「海ーその望ましい未来」だった。政府が投入した事業費は実に総額二三七一億円だった。沖縄経済の起爆剤にとの触れ込みで入場者は述べ四五〇万人が見込まれたが、実際に入場したのは予想より百万人も少ない延べ三五〇万人だった。短期間の博覧会だったが、終わってみると、地元企業の倒産が相次ぐなど、「海洋博後遺症」を残した。

上間金物店は海洋博工事ではそれなりに潤った。直接、工事を請け負うことはなかったが、期間中、工事に伴う部品、例えばチェーンブロック、レバーブロック、タンパックル、ワイヤー、ボルトなどがよく売れたのである。この時には沖縄が本土復帰して二、三年経過していたので、部品はすべて本土メーカーの物を仕入れていた。仕入れ先は確か、大阪の近藤鉄工だったと思う。

七六年(昭和五十一年)の閉幕後に解体工事が始まったので、店のクレーン車を持ち出し、解体作業に参画した。また使用済みのH鋼などの資材を払い下げてもらい、これを店で販売して収益を上げた。

昭和天皇が逝去され、「平成」の時代に入った。ここで平成の時代に入ってからの歩みを簡単に振り返ってみたい。九〇年(平成二年)には名護市伊佐川にレッカー事業部門を移した。九二年(同四年)十二月、同市城で三十五年も営業を続けてきた上間金物店を閉めた。これは同市大北で業務を一元管理するための措置だった。

九三年(同五年)一月、金物販売事業部門を法人化することになり、「有限会社ユーテック」を設立した。またレッカーリース部門を杭打部門を法人化し、「有限会社ウエマ産業」を設立した。一方、この一月に名護市伊佐川にあった有限会社ウエマ産業を名護市大北に移転した。九六年(同八年)一月、名護市東江にあった合資会社上間鋼材を大北へ移転、新築した。この結果、上間鋼材をはじめ、有限会社ユーテック、有限会社ウエマ産業の三つのグループ企業を一ヵ所に集めることができた。これで各企業が連携して業務を遂行できる体制が構築された。

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