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上間金物店の立ち上げ







与論との交易やクジラ漁でかなり収益を上げた。私はその資金を基に今度は陸上で商売を始めることにした。当時、沖縄は日本から切り離され、米軍の統治下にあった。沖縄の人たちで組織する行政府として、琉球政府もできていたが、沖縄統治の最高権力者は米軍であり、米民政府だった。布令、布告の名の下に沖縄県民の人権は大幅に抑制されていた。

既に商売のコツを学んでいた私は、米軍の施政権下で金物店を始めることにした。一九五七年(昭和三十二年)春だったと思う。名護町の城通りに嶺井時計店があったが、ちょうど売りに出されていたので渡りに船とばかりに買うことにした。住宅兼店舗として改装し、金物店を始めた、店の名は私の性を取って「上間金物店」と命名した。現在ある上間鋼材株式会社、ウエマ産業株式会社の前身である。そのころ、二女の明美(昭和二十八年五月七日生まれ)は四歳となり、また三女の弘美(昭和三十一年十月五日生まれ)も既に生まれており、五人家族となっていた。私は三十三歳とまさに働き盛りだった。

金物店の商売を始めるに当たって、私には何か知らないが自信らしきものがあった。それは台湾での生活経験から機械への関心が強く、それなりに勉強してきたという自負心があったからである。「いい物は売れる」という信念みたいなものを持っていた。

当時、城通りには金物店が五軒あった。私の金物店ではボルトやワイヤー、ペンチ、金づちなどの工具を売っていた。米軍の施政権下では本土(日本)との取引も十分にできなかったので、店では米軍の払い下げ用品を売っていた。米軍でいったん使われたボルトなどは、水ペーパーやワイヤーブラシできれいに磨き上げ、販売した。磨き作業は家内のヨシと一緒にやることもあった。

沖縄には汽車や電車というものがなく、車が陸上の唯一の輸送機関だった。そこで私は米軍の払い下げトラックを購入した。
今でいう中古車だったが、そのままでは何の役にも立たないので、私はそのトラックを改造してクレーン車に作り変えた。

クレーン車の運転には免許が必要である。免許資格は那覇で取得しなければなかった。私は那覇で泊り込みしながら、講習を受けて免許を取得した。

クレーン車は重い物を持ち上げ、運ぶことができる。当時、クレーン車を持っている会社はまだ少なかった。名護町内では所有しているのは私ぐらいのものだった。そういう意味ではクレーン車を使う仕事は独占状態だったのである。

私の改造クレーン車は威力を十分に発揮した。琉球セメントやオリオンビールなどの工場建設では業務を一手に請け負った。
時には運天港に停泊している船の荷主の八重山開発から依頼があり、パルプ材に使われる木材を運搬する仕事もした。国頭などで取れたシイの木の原木を運んだが、源木は重さが一?一・五トンもあり、とても人間の手で運び出すわけにはいかなかった。
このため私に声が掛かり、その度に私は港に出向き、運搬作業を手伝ったのである。

運天港での作業は船の出発時間との関係もあって二十四時間体制で行われた。もちろん、私だけでパルプ材の運搬作業をやるわけにもいかず、助手作業員が必要だった。このため桑江良彦君(上間鋼材株式会社の現常務取締役)を補助作業員として使ったことを覚えている。

当時、彼はまだ十六、十七歳で県立名護高校の定時制に通っていた。夜の学校の授業が終わると、現場に掛けつけてくれた。クレーン車の操作は不慣れだったが、私の仕事を側面から手伝ってくれた。
桑江君は「会社から出してもらった大きな弁当の味が今でも忘れられない」と、思い出を語っている。

琉球セメント株式会社の設立は一九五九年(昭和三十四年)九月二十八日。旧屋部村(現名護市安和)に工場が落成したのが五年後の六四年(同三十九年)十二月十日である。火入れ式では創業者の宮城仁四郎社長の初子夫人が点火スイッチを押し、沖縄で初めてセメント事業がスタートした。

その工場建設に上間金物店のクレーンがうなりをあげ、忙しく立ち働いたのである。重い資材を持ち上げ、運んだりするなど、クレーンはフル操業した。このクレーンによる運搬作業は請け負い業務とはいえ、賃金は時間で決まっていた。当時はオペレーター込みで一時間三千五百円、ドルに換算して十ドルが相場だった。一般の労務の賃金に比べると、破格の賃金だった。琉球セメントの工場建設は名護鉄工所が請け負い、運搬作業で私が下請けするといったものだった。琉球セメントの工場建設にあたっては、特殊な技術が要求されることからドイツ人技師が派遣されていた。

名護市東江にあるオリオンビール株式会社。一九五七年(同三十二年)五月十八日に設立された沖縄唯一のビール製造会社だ。創業者、具志堅宗精氏が「戦後の沖縄の経済を復興するには第二次産業を興さなければならない」との強い意志に基づき、創設されたもので、そのビール工場建設にもかかわった。工場建設は同年八月に始まり、翌年の五八年(同三十三年)十一月に完成した。名護鉄工所が請け負い、その下で私が働くというパターンだった。人がやっていないクレーン作業だったので、仕事はほぼ専属的なものだった。競業する会社がなかった分だけ、仕事は安定し、それなりに収益を上げた。

一方、米軍の払い下げ品を求めて私は宜野湾市大謝名や浦添市の牧港方面へよく出掛けたものである。米軍の払い下げ品を卸す業者には私が所有する車を有料で貸しながら、金物店で売れそうな部品を買い集めた。ある時は部品の調達で三ヵ月間も大謝名に泊り込むこともあった。家内のヨシは心配したが、私は必死だった。店と子供はヨシに任せきりにして部品調達に奔走した。家内は店を切り盛りし、私は商品(金物の部品)を仕入れることに全力を挙げた。

その当時を振り返り、ヨシは「お客さんが仕事を教えてくれた。お客さんに感謝する毎日だった」と述懐している。この二人三脚の仕事が続けられたからこそ、人より多く利益を上げることができたのであり、それが会社を興す原動力となったのである。「人がやらないことをやる」?それが私の経営理念となった。

アメリカ製のボルトなどの部品は耐久性に優れ、お客さんから人気があった。特にヤンバルでラージ(四分の三トン車)や二・五トンのベーカ車など使って木材の切り出し、運搬作業をしている業者からよく注文があった。起伏の激しい国頭村奥や辺土名など山奥では車をかなり酷使したので、ボルトの消耗が激しかった。このためボルトの買い替えも多く、頑丈なアメリカ製のボルトがよく売れたというわけである。日本製などは見向きもされず、まさに「アメリカ製さま、さま」だった。

城通りにあった上間金物店は順調に売り上げを伸ばしていった。クレーン車による請け負い業、ボルトなど金物の売れ行きは好調で、経済的にもゆとりが出てきた。この時期に長女、二女、三女に続いて四女の京子(昭和三十四年九月十日生まれ)、五女のみちる(同三十七年四月二十二日生まれ)、長男の雅之(同三十九年九月十八日生まれ)も相次いで誕生した。六番目に生まれた雅之は初の男の子で、私の後を継ぐ嫡子として喜びもひとしおだった。この結果、我が家は八人の大家族となった。

仕事も大変忙しかったが、子供たちの澄んだひとみ、純真無垢な笑顔、茶目っ気な素振りに元気付けられたものである。子宝に恵まれ、家庭的には申し分はなかった。子供たちの成長とともに「家族のために」との思いも強くなり、仕事に一層熱が入った。

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