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釣り具店経営

上間金物店を経営する前に、名護市城で釣り具店を一年ほどやったことがある。金物店を始めたのが一九五七年(昭和三十二年)だから釣り具店はその前年の五六年(同三十一年)だったと思う。

釣り具店だから、釣り竿や釣り針、浮き、オモリなどを販売するのは当然だが、私の場合、オモリは港区の自宅で作り、城通りの店で販売した。どのようにしてオモリを作ったのか。まず原料の鉛だが、これは海底に沈んだ軍艦や米軍の払い下げ部品の中から鉛の部品を取り出し、これを鍋で溶かし、オモリを型取った鋳型に流し込み、固めて作ったのである。船は米軍が使用したケーブルの中に多く含まれていた。

鋳型はアルミと真ちゅう(黄銅)製の二種類。その鋳型はもちろん、手作りだった。名護鉄工所に働いていた奄美大島出身の方に作ってもらった。一般家庭のコンロで熱し、溶けた鉛を鋳型に流し込んで作るー原始的な作り方だったが、それでも結構作ることができた。このオモリ製造は自分一人でできるものではない。小さな狭い家で家内のヨシと一緒に苦労しながら作ったことを覚えている。

オモリは主に八号、三〇号、四〇号の三種類を作っていた。手作りだが、毎日コツコツと作っていくと、かなりの量になる。そうなると、自分たちの店だけでは裁ききれないので、那覇の壷川にあった釣り具店に卸すこともあった。私の記憶では四〇斤(二四キロ)のオモリを二人で担いで運んだことがある。那覇へ持ち運ぶ時には路線バスを利用した。那覇のバス停で降りた後は、その釣り具店まで歩いて持っていったものである。

釣り具店は一年ぐらいやったが、このオモリの製造、販売ではかなり収益を上げた。一方、釣り具店のことで思い出されるのは、学校の夏休みの時には子供たちに朝早くから起こされ、閉口したことである。名護の海岸は釣り場が多い。近くの海でガーラ(ひらあじ)がよく釣れたので、釣りをする子供たちが多かった。

夜も遅くまで働いていたので、朝早くから起こされるのは正直言ってきつかった。しかし、子供たちにとっては、何の関係もないことである。屈託のない子供たちのはしゃぎ声を聞けば、疲れきった体に鞭打ってでも対応して上げなければならない。この気持ちはヨシも同じだったと思う。今振り返ると、きつかったが、楽しい良き時代だったと思う。

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