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ザトウクジラを捕獲



その日は穏やかな日だった。七福丸は名護湾に停泊していた。乗客と貨物を載せ、これから与論へ向け出港しようとしていた。そんな矢先だった。漁船の廣泉丸から「鯨が名護湾に近寄っているので、応援してくれ」との連絡が入った。大きい鯨となると、少なくても二隻で挟むようにして山入端方面へ追い込み、クジラが自由に身動きできなくなったところで船上からモリで仕留めるのが通常のやり方だった。あいにく廣泉丸の僚船はドッグ入りしており、港には他の漁船はなかった。そんな折、湾内に貨客船の七福丸が停泊しているのを見て「これ幸い」と声が掛かったのである。

名護湾は明治の中期ごろからヒートゥ(ピトゥ)狩りといって、鯨の仲間であるコビレゴンドウ、オキゴンドウ、バンドウイルカなどの追い込み漁ができる湾として有名だった。名護の人たちの血がわき、肉躍るヒートゥ狩りは勇壮そのものであり、男も女も、農業をしている人達さえ、手を休め、浜に繰り出し、集団で回遊してきた鯨の捕獲に熱狂したものだ。鯨やイルカは、今でこそ捕獲が規制されているものの、当時は住民の唯一のタンパク源として重宝がられたものである。ヒートゥ狩りは延々と数時間にわたって行われた。鯨はモリで突き、捕獲する。このため湾内は鯨の血で真っ赤に染まった。

廣泉丸からの連絡で私の血が騒いだ。せっかくの連絡である。むげに断るわけにもいかない。早速、乗客と貨物を降ろし、漁師を乗せ、現場の沖へ向かった。

時に一九五一年(昭和二十六年)五月五日の出来事である。私は船主として参加、指揮船の廣泉丸の指示に従いながら、鯨を浜の方へと追い込んだ。鯨は大型のザトウクジラだった。体長は約一三メートル、重量にして六〇トンはあっただろうか。ヒートゥと呼ばれる小型の鯨とは大きさが全く違う。船の転覆も十分に予想された。クジラ漁は慎重に追い込みを図らないと、逆にこちらがやられかねない雰囲気だった。そのような緊張感の中で漁は行われたのである。

幸いというべきか、このザトウクジラは子と一緒だった。湾の入り口で大きく暴れることなく、浅瀬の浜へ追い込むことができたのはラッキーだった。廣泉丸の指示で捕獲開始の合図が出た。二艘に乗った漁師が一斉にモリを打ち込む。もちろん、船首にクジラ砲が設置されているわけでもない。モリは漁師が力いっぱい投げ込むのである。浜に追い込まれたクジラは自由があまり利かない。そこへモリの雨である。大きなクジラもついに力尽き、捕獲された。当時は世界的に見てクジラの数も多く、沖縄県民の食糧資源として一般家庭の食卓に上った。この名護のクジラ漁は季節的なものとはいえ、漁師らの格好の収入源となった。

私もそのおこぼれをいただいた。大物クジラの捕獲だったので、それなりの臨時収入が入り、懐が潤ったことを覚えている。家内のヨシも浜辺に繰り出し、陸揚げされたクジラの解体を手伝いながら、黒山の人だかりとなったお客さんに五斤(三キロ)、十斤(六キロ)と切って売った。クジラの肉はおいしく、肉は飛ぶように売れた。しかし、六〇トン余もあるザトウクジラである。さすがに一日では裁けずに、完全に処分する
までに三日はかかったと思う。このザトウクジラの捕獲を契機に漁師たちの捕鯨への士気が高まり、また町民のヒートゥ狩りへの関心も一段と強くなったといわれる。

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