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大型台風と格闘

船主として肝を冷やした経験がある。これは五一年(昭和二十六年)の出来事である。台風の名は「マージ」だったか「ルーズ」だったかは忘れたが、風速四、五〇メートルの超大型台風で県内各地に甚大な被害をもたらした時のことである。その時の乗組員は船主の私、船長の川端豊英、機関長・田端豊英(昭和三年生まれ)、甲板長・堀田直常の四人。台風は満潮で重なり風はかなり強く吹いていた。我々は他の漁船との接触転覆を避け、当初は馬天港近くでアンカーを下ろし、雨風をしのいでいた。だが、風雨は止むことを知らず、容赦なく我々の船をたたきつけてきた。

エンジンを停止していたら船が持たないと判断した我々は台風が通過するまでエンジンをかけっ放しにすることにした。風の方向に向かって船を進める手段に打って出たのである。船は風向きに逆らうように進行しようとするが、風があまりにも強く、その進路をちょうど阻止するような形で作用し、一定の場所にとどまった。  だが一〇トンの船も大海にあっては木の葉のように右に左に大きく傾き出した。その度に高波がどっと押し寄せ、甲板を洗い、引いていく。我々は船を守ろうと必死だった。だが、風雨は一向にやまず、そのうちアンカーをつなぎ止めていた三本のロープのうち二本が切れてしまった。私は「しまった!」と叫んだ。その時だった。乗組員の中では一番若い甲板長の堀田さんが海に飛び込んだのだ。

堀田さんは当時の心境を「海に飛び込めるのは私以外にいないと判断。それで荒れる海に向かって飛び込んだ」と述懐している。私に指示されて飛び込んだのではない。堀田さんは手探りで切れたロープを見つけ、それを甲板に引き上げてくれた。ロープは無事、つなぎ止めることはできたものの、これ以上、現場にとどまることは危険だった。

次の手段として我々は船を砂浜に乗り上げ、被害を最小限に抑えることを考えた。錨を上げた。船は浜を目指し、進路を変え、浜を目指し進んだ。馬天港に近づくと、港内は波がかなり穏やかであることに気付いた。そこで急きょ、港内に船を係留することを決め、我々は馬天港へ入港した。これは幸いだった。船が港に入った時、波風はだいぶ落ち着いてきた。我々は港で停泊したが、皆ホッとした表情だった。機関長の田畑さんは「本当に助かったと思いましたよ。その晩、一息入れて一杯飲みました」と当時を振り返った。

いずれにせよ、我々はこの大型台風を皆の協力で無事、乗り切ることができたのだ。正直言って私は船と一緒に心中する覚悟だった。今でも大きな台風が沖縄を通過する度に、当時のことが鮮烈に思い出される日々である。

七福丸とは四年ぐらい付き合った。五〇年には朝鮮戦争が起こり、日本はアメリカ軍の補給基地となった。武器の修理、軍需品の輸送、生産などを日本企業が引き受け、日本は一気に好景気となった。これは「特需景気」と呼ばれ、日本の高度経済成長の引き金となった。広大な軍事基地を抱える沖縄でも建設業を中心に県経済が潤った。また、くず鉄などのスクラップ業がにわかに脚光を浴びるようになったのもこの時期である。伊江島の沖合には沖縄戦で沈んだ米海軍の軍艦があった。この軍艦のスクラップを集めるために私の船も駆り出された。伊江島では民宿に泊まり込みしながら船を操り、利益を上げたものだ。その後、七福丸は薬きょう取りをしていた本部町出身の人に売った。

一方、名護の沖合には撃沈された日本軍の駆逐艦があったが、その解体作業に私は参加した。サバニ(小船)にコンプレッサーを積み込み、ダイバーを四、五人雇って海底に眠る駆逐艦のスクラップを巻き上げ、販売した。この解体作業は半年ほど続き、かなり収益を上げたことを覚えている。

この間、丙種航海士の免状も取得した。本部町の渡久地港内にあった施設で二週間、研修を受け、取得したものである。私の顔写真付きのその免状は、今も大切に保管しているが、それによると、取得した年月日は五二年(昭和二十七年)十二月十八日、とある。有効期間は五二年十二月十八日から五七年十二月十七日までの五年。免状は琉球政府行政主席名で交付された。

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