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与論交易で家計潤う




ピンチの後にチャンスあり。カイジン草では収入がなかったが、このころ、与論との航海で一儲けできるチャンスが到来した。同じ年の一九五〇年(昭和二十五年)ごろだっただろうか。当時、流通していた貨幣のB円で約十五万円を出して船を購入した。無論、手持ち資金はなかったので、銀行から全部借り入れして買った。定員十人乗り、一〇トンの船である。私は船の名を「七福丸」と命名した。その名は「七福神」の由来からきている。奄美諸島が本土へ返還されるまで沖縄と奄美との渡航は自由だった。北部地方では運天港ー与論が航路として定着しており、私も七福丸の船主として商売に乗り出したわけである。最初のころは航海士の免許を持っていなかったので、与論の人を船長として雇い、日銭を稼いだ。そのころだった。ウエマ産業株式会社で現在、専務取締役をしている岸本文旭の父、徳勇さん(明治四十五年七月七日生まれ)も乗組員として船に乗り込み、一緒に仕事をしたものである。

当時はまだ生活物資が不足しており、与論からは人の往来はもちろんのこと、牛、馬、豚、山羊、鶏などの家畜類を沖縄へ入れた。与論は戦災を免れていたので、これらの家畜類を安く仕入れることができた。このため運天港は黒山の人だかりでごった返し、これらの牛、豚類はあっという間に売れたものである。

一方、沖縄から与論への物資は塩、ソーメンなどの食品や日用雑貨、またガソリンを運んで利潤を得た。沖縄で仕入れる商品の代金は与論の商売人が私に持たしてくれたので、私は資金に不自由することなく仕入れることができた。この時期、経済的にもかなり潤ったが、「与論の人たちのおかげ」と、今でも思っている。ちなみに運賃は大人二百円で、大牛は五百円、子牛二百円、豚は百円だった。七福丸は与論航海が主だったが、たまには佐敷にある馬天港まで航海し、豚などを降ろすこともあった。

だいぶ稼がせてもらったが、与論との航海が商売のコツをつかむ貴重な体験となったことは事実である。ところで与論島のことについて少し触れておきたい。与論は奄美大島諸島の最南端に位置し、沖縄本島から二八キロ離れた所にある。サンゴ礁の島で、真っ白い砂浜と青い海が魅力的だ。周囲二四キロ、面積は二〇平方キロ余、車で二、三時間も走ると一周できる小さな島。そこに六〇〇〇人余の住民が住んでいる(二〇〇三年九月末現在、二二五九世帯、六〇二九人)。

与論島には沖縄の三山時代に活躍した北山王の三男・王舅が築城した与論城跡がある。築城は途中で中止となったが、一四〇五?一四一六年ごろのものと見られる。与論は戦後、沖縄と同様に米軍統治下にあったが、一九五三年(昭和二十八年)十二月、祖国復帰を果たした。復帰前までは沖縄との往来は自由だった。与論は沖縄と違って、戦災を免れており、食料資源としての牛、豚、山羊などの家畜類は生き残っていた。このため復帰前後に活躍し、一旗上げた人たちが家畜類の仲買人、いわゆるバクヨウと呼ばれる人たちだった。

そのうちの一人が本畑實さん(明治四十年生まれ)で、平成十五年八月現在、九十六歳と高齢ながら、なお健在である。本畑さんの息子、本畑敏雄さんは、当時の話をよく聞かされたといい。「七福丸は金の船だった。バクヨウの仕事で金を稼ぎ、たくさん土地を買った。父が長生きできたのも、その時の蓄えがあったればこそである。本当に感謝している」と語っている。

沖縄からはガソリンや建材、ソーメン、チューインガムなどが島に持ち込まれた。七福丸の乗組員の堀田直常さん(昭和六年生まれ)は当時の状況をこう述懐する。「戦果としてガソリンを入手したことがあった。ガソリンの仕入れ価格はドラム缶(二〇〇リットル入り)が日本円で千三百四十円だったものが、島では七千円で売れた。実に五倍の値段で裁けたのである。当時の村長の給料は四千円。これに対し、我々の給料は七千円?八千円だった」と。世替わりの時期はまさにビジネスチャンスの時だったのである。船を利用しての生活物資の売買は、それなりに苦労はあったものの、魅力的な仕事の一つだったといえるだろう。

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