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廃墟の中から

下関で漁業に従事したあと、再び名古屋に戻り、沖縄へ帰還する復員者と一緒に、米軍の船で故郷へ帰ることになった。戦後初めて見る那覇の街は、焼け野原と化し、まだ戦争の爪跡が色濃く残っていた。港には家族の姿はなかった。我々は米軍のトラックに乗せられ、急ぎ羽地へと向かった。

我部祖河も戦争の爪跡が残っていた。集落に着いたが、人々はテント小屋暮らしを余儀なくされていた。木造住宅の家々は空襲で焼かれたので、村人は粗末なテントを張り、その日暮らしの生活をしていたのである。私は義理の兄弟、岸本徳勇さんの家に仮住まいしながら、今後のことを考えていた。

「畑仕事では食っていけないし、農業をしていく自信もない。私には集落の人たちとは違う漁の経験がある。海外での漁業経験を生かし、海の仕事をやろう。村を一歩飛び出せば、そこは海だ。漁業で生計を立てていく以外にない」とー。

幸い、集落内にラバウル時代の戦友がいたので、その人と一緒に今帰仁村の古宇利島に渡り、そこに移り住み、魚釣りをしながら、しばらく生活していた。

そのような生活を送っているうちに、私の結婚話が持ち上がった。同郷の宮城ヨシさんとの婚約である。ヨシさんは同じ我部祖河に住んでいた宮城幸蔵さん、マツさんの二女で、一九二七年(昭和二年)九月十日生まれだった。私とは三歳年下である。親戚や親の勧めもあって、結婚話はすんなりまとまった。宮城さん一家はヨシさんも含め、子供五人(三男二女)の七人家族だった。

戦後のドサクサ時代である。食べていくにも不自由な時世だった。生活物資も極端に少なく、人々は物々交換しながら生きていた。戦後、ヨシさん家族は嵐山近くに避難小屋を建てて生活していた。幸蔵さんは農業していたが、それだけでは食っていけなかった。ヨシさんは家計を助けるために、刈り取った稲で藁をなう仕事もした。もちろん、家に藁をなう機械があったわけではない。製縄機を持っている農家に雇われ、縄作りをしたのである。

縄作りは根気の要る仕事だった。縄は一日で五巻ぐらい作ったという。わずかな賃金だったが、その当時は仕事らしい仕事もない時代だったので、我慢するしかなかった。

ヨシさんと所帯を持ったのは四八年(昭和二十三年)春。私が二十四歳で、ヨシさんが二十一歳だった。翌年(昭和二十四年)四月二十三日には長女の淳子が生まれた。  結婚した当初は我部祖河の妻の実家に居候していたが、本格的に漁業に従事することになって名護の町に引っ越した。そのきっかけをつくってくれたのは名護の町に住んでいた義理の姉である。夫は漁師をしていたので、「あんたもウミンチュになりなさい」と勧められたのである。結婚したてのころは生活も厳しく、金もなかったので、民家の四畳半一間を借りて住んだ。それもトタン屋根の庇を伸ばし、板で周りを囲うといった貧弱な家だった。だが、当時は一間でもいいから住めること自体がありがたかった。贅沢など言っていられなかったのである。

名護の町に住んでからは、漁業従事者で組を作り、船を所有した。我々は三十人で一つの組を作り、魚泉丸(七トン)を所有、名護漁港を拠点に恩納村沿岸辺りまで漁場として追い込み漁に励んだものだ。獲れたのはアカムロ、アジなどだった。漁から帰ってくるのは大体、午後三時ごろだった。

売りさばくのは女たちの仕事で、ヨシもその一員として獲れたばかりの魚を売りに出た。当時は履物もなかった。ヨシは魚の入ったバーキ(竹製のカゴ)を頭に載せ、裸足で売り歩いていた。名護の市場で売りさばけない時には、町から約八キロ離れた羽地村の振慶名まで足を運んだという。

長女の淳子が誕生してからは、ヨシは魚売りができなくなったので、名護の市場で野菜売りの手伝いをするようになった。

名護での生活にも慣れてきた。親戚の協力も得られるようになってきた。長女の淳子が生まれるまでには家も建てられるまでになっていた。ヨシの姉であるウシさんの夫、新城善一さんが山で切り取った材木を製材してくれた。我部祖河出身の人なら区長の許可を得て、集落の山から木を切り出すのは許されていたので、私も区長の許可をもらい、山から木を切り出した。これを善一さんがノコギリで製材してくれたので、その建材で家を建てることができたのである。当時、三間角と呼んでいたが、今日でいえば八畳二間プラス小さな台所付き、といったものだった。五○年(昭和二十五年)に入って、もっと金が稼げることはないか、と新たな仕事を探していたところ、伊豆味源徳さんの紹介で八重山を拠点にカイジン草(ナチョーラ)の収穫作業が金になるとの情報が耳に入った。戦前、台湾行きのきっかけをつくってくれた人でもあり、その言葉を信用して八重山に行くことになった。私は妻子を残し、一人船に乗り込んだ。

カイジン草は当時、学校で子供達の虫下しとして使われていた薬草である。深さ二、三メートルの浅瀬に生えていた。これを潜って手で刈り取り収穫するのである。  カイジン草の収穫作業に当たったのは漁民約三十人。我々は八重山を拠点に台湾の沖合にある中国領のプラタス諸島まで足を伸ばした。カイジン草は名護の原河の海でも採れたが、小さかった。せいぜい三、四センチぐらいのものだったが、プラタス諸島の海域ではその長さが二〇センチもあり、沖縄産と比べ、はるかに大きかったのである。

我々が乗ったのは五〇トンの船だった。カイジン草が繁殖しているポイントで我々は降ろされ、収穫作業に当たったが、周辺は寒流が流れ、海水は冷たかった。また潮水の流れも速く、作業は厳しかった。そのような状況からカイジン草は水がきれく、流れが速いところでないと繁殖しないことが分かった。

採れたカイジン草は陸上班の人たち約二十人が乾燥させ、箱に積み込んだ。これらのカイジン草は全部本土へ出荷された。一方、収穫した分量のうち半分は地元に与えるという約束だった。戦後、中国はアジアの大国として君臨しており、また外交上の問題などもあって、そのような対応をせざるを得なかったようだ。

この仕事を半年間やって帰ってきたが、伊豆見さんからは一円ももらえなかった。「約束が違う」と言っても埒があかなかった。この半年の出稼ぎは一体なんだったのだろう。ヨシはあきれ返っていた。「なんでウミンチュの妻になったのかね」と、愚痴をこぼし、自分を責めたようだ。これは後になって本人から聞かされたことである。私も立つ瀬がなかった。

一方、私の帰郷後、ヨシは生活の糧を求めて名護の市場で衣類販売の商売を始めた。二年ぐらい続けたと思う。衣類の仕入れはヨシの仕事。この時、長女の淳子はまだ一歳そこそこで目を離すわけにはいかなかった。衣類販売を手伝ってくれていた女店員に淳子を預け、ヨシは那覇の平和通りにあった卸問屋へ出掛け、商品を仕入れていた。当時は公営バスが 運行していたので、ヨシはそのバスを利用し、名護と那覇を行ったり来たりしていたようだ。

海の仕事のない日々が続いた。私はじっとするわけにもいかず、ヨシがやっていた店のすぐ隣(二部屋)が空いていたので、そこを借り受け釣り具店を始めた。この経験を生かし、私は六年後の一九五六年(昭和三十一年)にも再び名護市城で釣り具店を始めることになるのだが・・・。当然のことながら、私は釣り竿やオモリ、釣り糸など販売したが、店はそう長くは続かなかった。半年で店をたたみ、また海の仕事へ戻ることになったのである。

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