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ラバウルで終戦迎える

しばらく高雄で休養してまた漁に出ることになった。今度は台湾の領海内である澎湖水道を越えた所にある澎湖島での漁生活が待っていた。高雄から遅い船足で八十時間はかかる漁港の町である。澎湖島を基地に漁に出たが、今度は貝採りと違って本来の魚漁だった。マグロ船にも乗り、底引き網漁業を主体とする手繰り船にも乗った。私は完全にウミンチュの一員になっていた。

私が澎湖島にいる時に太平洋戦争が始まった。台湾では戦争の影響はそれほど大きくなかったが、我々は軍属として日本軍に徴用され、糧秣の調達、運搬の任務を負わされたのである。一九四三年(昭和十八年)、我々は澎湖島を出て高雄、フィリッピンのマニラをへてパプアニューギニアのラバウルに着いた。軍に徴用された漁船はかなりの数に上っていた。私の記憶では三十隻はあったと思う。我々の船団には海軍の護衛艦が付き、航海の安全を期すという物々しさであった。途中に立ち寄ったマニラには一週間滞在した。ラバウルでは漁業に従事し、追い込み漁で魚捕りをした。

我々が所属した部隊の責任者は、那覇市出身の山口大隊長だった。我々は五、六人で漁労班を結成し、グループで漁に励んだ。山口大隊長は我々に好意的で、配給品の乾パンや煙草などを多めにくれた。

戦時でも米軍の攻撃がない場合は漁業には何ら差し支えがなかった。しかし、戦況が悪化し、米軍の空襲が激しくなると、漁に出られない。船は敵機に見つかり、攻撃の目標とされるからだ。仕方なく我々は空襲の合間を縫って、港から一、二キロ離れた海岸に行き、ダイナマイトを仕掛けて漁をしたものだ。一帯は豊かな漁場で魚がよく捕れた。これで我々は腹を満たすことができた。

ラバウルは戦争さえなかったならば、住む所としては最高だった。島の近くに豊かな漁場があるうえ、土地は肥えていた。野生のパパイアやバナナなど熱帯果樹も島のあちこちに自然に生えており、食べるのに不自由しなかったからだ。島の人たちは人なつこく、親切だった。平和な世の中なら、住んでもいいと思ったぐらいである。機会があれば、再び訪れてみたい島の一つである。

ラバウル生活は二年を超えた。一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。日本軍が仕掛けたハワイの真珠湾攻撃から三年と八ヶ月。軍部の独走の結果、多くの国民が戦争の犠牲になった。一方、私の故郷・沖縄では激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて二十万余の人々の命が奪われた。 ラバウルで終戦を迎えたが、すぐに日本へ帰ることはできなかった。日本への帰還が許されたのは翌年の四六年(昭和二十一年)冬。我々は米軍の船に乗せられた。船内は元日本兵や軍属など復員者でいっぱいだった。食事の時には乾パンやにぎりなどが配給され、問題はなかったが、船内はごった返し寝るスペースがないのには閉口した。横になって寝ることができなかったのである。このため、ほとんどの人が座って寝るといった状態だった。これが大変きつかった。

長い航路の末、愛知県の名古屋港に入港した。港でシラミ取りの殺虫剤・DDTを頭からたっぷりかけられた。DDTはメリケン粉状の白い粉末だったが、においはきつかった。名古屋で二日間、収容されたあと、大洋漁業株式会社の本社がある山口県の下関へ行った。下関では三カ月間、手繰り船に乗り、日本海で漁をした。日本海は豊かな漁場で、タイやイカ、エソ、たまにフカなどがたくさん獲れた。魚を満載して下関港に帰り、また漁場に向かう。私は下関滞在中、三航海した。

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