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台湾行きを決意


振慶名にあった羽地尋常高等小学校は高等一年までしかなかった。高等二年に進級するにはさらに隣の仲尾次へ通う必要があった。私は家庭的な理由から進級することを断念し、同小学校を卒業した。その時、十五歳になっていた。今の新制中学校卒業とほぼ同じ年齢に当たる。学校を出て、家でぶらぶらするわけにもいかないので、しばらくは武田薬草園で働いた。

その後、我部祖河の寄合原から切り取った琉球松の木材を場車道まで運ぶ仕事をした。寄合原から馬車道まで運ぶ仕事をした。寄合原から馬車道までの道のりは一キロはあっただろうか。木材は肩に担いで運ぶが、これは重労働である。大きさや重さによって賃金は決まっていた。かなり重たい木材を運ぶ人夫もいたが、私の場合、直径は約五寸(一五センチ)、長さ約六尺(一八○センチ)、重さ約四十斤(二四キロ)の木材を運搬した。一日で十往復はしたように思う。この琉球松を使って名護の製材所では、家具や砂糖樽など作っていた。

この仕事も長くは続かず、今度は名護町にある山口自転車店で丁稚奉公に出た。もちろんのこと、山口さんの家に寝泊まりしての仕事である。仕事の内容は朝六時ごろ、起床し、自転車を二、三台きれいに磨いてから朝食を取る。日中はパンク修理などだった。

そのころ、自転車は高価な乗り物だった。我部祖河内でも一、二台はあるかといったぐらい数少なかったのである。このため自転車を販売し、修理する店も少なく、山口自転車店では買ったお客さんの自転車を預かり、掃除し、管理することもしていたので、結構、もうけていたと思う。

この自転車店は名護町内の羽地通りにあった。賃金は日当にして二十銭はあった。大人の一般労働者で日当五十銭の時代だから、少年がもらう給与としては、いい方だった。いただいた給料は実家にも多少入れたが、大半は自分で使った。

住み込み仕事の嫌なことは、山口さん一家と一緒に食事を取ることだった。山口さんは本土出身の方だったので、食事の際、温かいご飯を入れたおひつを出す。ご飯は自分でおひつから取り出して碗に入れるので、お代わりするのが辛い。皆の視線があるので、自由にお代わりができない。こちらは育ち盛り、食べ盛りなので、本当なら何杯もお代わりしたいが、家族の手前、そうもいかない。結局、満腹しないままに食事時間が終わるので、いつも空腹感があった。このため、その生活に耐えられなくなって自転車店を辞めた。

そんな時だった。我部祖河出身で隣の台湾で漁業関係の仕事をしている伊豆味源徳さんが若者を募集していることが分かった。四年勤務を条件に一人当たり三百円の報酬を出すという。友達の誘いに私の心は揺れた。その時、もう十七歳になっていたが、実は家庭的な問題で私は親への不信感を日々、募らせ、反抗的になっていた。台湾行きを親に話すと、必ず反対されることは明らかだった。それで私は内緒で台湾行きを決意、友達三人で出稼ぎに行くことにした。

台湾行きの案内役は伊豆味さんの奥さんだった。四人一緒に那覇行きのバスに乗り込んだ。船は那覇港から出るが、出発の日まで、あと三日はある。三人とも那覇市内の民宿で寝泊りしたが、そこで食べた料理が実にうまかった。豆腐とモヤシを混ぜて油で炒めた「マーミナーチャンプルー」だった。今でこそ、マーミナーチャンプルーは日常的に食べられる庶民の味だが、その当時はヤンバルでは食べたことがない代物だったのである。物珍しさもあって、三人とも「おいしい、おいしい」と連発して食べたことを覚えている。

また那覇滞在中、奥さんの親戚が料亭をしていたので、その関係もあって料亭に連れて行ってもらったことがある。食事を取りながら、ジュリ馬の踊りを見せてもらった。当時はジュリ(那覇市辻町の遊女)の意味さえ分からず、料理と踊りを楽しんだものだ。ジュリ馬は今では、那覇市の観光名物となっているが、これは旧暦一月二十日の二十日正月に那覇の辻町で行わる恒例の祭祀となっている。馬の頭部を形取った飾り物をジュリが胴体に固定し、掛け声をして街中を練り歩くもので、商売繁盛と豊作を祈願をする。

船は確か沖島丸だったと思う。三○○○トンはあっただろうか。初めての船旅である。船を見たときにはその大きさにびっくりした。夢を見ているような感じだった。沖島丸は多くの人たちに見送られ、那覇港を離れた。船は白波を立てながら台湾の北に位置する港町、基隆を一路目指し、航海する。

船は見かけとは違い、設備は貧弱だった。我々は三等室に泊まったが、冷房もなく暑かった。三等室は船底である。エンジン音と油のにおいで気分が悪くなった。このため、ちょくちょく甲板に出ては長い時間を過ごしたが、目的地の基隆まで一昼夜半はかかった。無事、基隆に着いた。我々四人はすぐに台湾の南側にある高雄へ行くために汽車に乗った。高雄は南の大都市・台南よりさらに南下した所に位置する商業都市である。良港を抱え、東南アジアへの玄関港として知られる。我々が乗った汽車は鈍行だった。汽車で二泊してやっと高雄に到着した。

高雄を拠点にした漁生活が始まったが、漁船の整備などもあって約一ヶ月は休養した。我部祖河から来た我々三人の仕事は、漁船に乗り、先輩乗組員らと一緒にタカセ貝、ヒロセ貝を採り、港に持ち帰ってくることである。漁船は五○トンあった。この船には船長、コック、機関長のほか、漁夫ら二十四、五人が乗り込んだ。出漁すると、半年は帰って来ない。

我々の仕事は魚漁とは違う。洋服のボタンの材料となるタカセ貝、ヒロセ貝の採取である。これらの貝は高く売れたようで、商品は全部本土へ出荷された。我々は出漁に出た。漁場は広かった。フィリッピンと台湾の境界となっているバシー海峡を越えた海域である。高雄を出発して目的地に着くまで半月はかかった。小さな島々の環礁(リーフ)内で潜り、貝類を採取した。私の記憶ではベトナム沖にある中国領・海南島の近くまで漁をした。この間、台風にも遭遇した。船いっぱい貝を積んで我々は半年ぶりに寄港した。乗組員は大きな任務を果たし、喜び勇んで高雄の土を踏んだ。

皆の表情には無事、台湾に帰ってきたという喜びと安堵感が漂っていた。漁を通して私は貝採りの技術を学んだほか、我部祖河ではまるきり駄目だった水泳も身に付けることができた。私にとっては、お金の報酬とは別の成果だったといっていい。

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