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村を揺さぶった嵐山事件

のどかな羽地村にふって湧いたような事件が起きた。隣接の町村を巻き込んだらい療養所建設に反対する事件である。沖縄県当局は旧羽地村の高台にある嵐山にらい療養所の施設を建設する予定だったが、これに反対する地域住民の強い反対運動に遭遇し、断念した事件である。この反対運動で百人余が検挙され、うち十五人が起訴されたが、この事件は建設予定場所の地名を取って「嵐山事件」と呼ばれている。

らい病はらい菌の感染による慢性伝染病で、戦前は不治の病として人々から恐れられていた。患者は世界的にインドに最も多く、続いてアフリカ、東南アジア、中国、中南米などとなっているが、日本には約一万人はいるとされている。現在、病名はらい菌を発見したノルウェーの医学者の名にちなんでハンセン病と呼ばれるようになった。今日、日本での発生例はほとんどなく、根治できる病気である。

事件は私が八歳で、小学生の頃に起きた。一九三一年(昭和六年)三月、村の青年が嵐山へ薪を採りに行く途中、雑木林が切り取られ、大きな広場ができているのに気付いた。見ると。らい病患者療養所の建設現場だった。おどろいた二人は早速、字(集落)の区長に通報したのが事件のきっかけである。(一九九九年十二月発行「我部祖河誌」から)。 風光明媚な嵐山は、村内の我部祖河、呉我、古我知の三集落の水源地に当たるとともに、隣村の今帰仁村、屋部村の河川にも大きな影響を与えていたことから、これらの村にもたちまちのうちにうわさが飛び火し、療養所建設反対運動が起きた。

村民の騒動は私たち小学生まで影響した。字の青年たちは各家庭を回り、子供たちを学校に行かせぬよう全員休校とするよう指示した。同時に河知産業組合(現在の農協)前に集合するよう村民に呼び掛けた。集合場所には我部祖河、古我知、呉我の住民がムシロ旗を掲げ、建設反対の気勢を上げていた。一行は「ワッショイ、ワッショイ」と声を掛け合い、伊佐川三叉路、田井等、川上を通り、羽地尋常高等小学校の校庭を一周したあと、村の中尾次、真喜屋を通り、稲嶺小学校の校庭を一周、再び村内をデモ行進し、呉我の橋のたもとに終結した。会場では療養所施設の建設に断固反対することを確認し合い、子供たちにはしばらく休校することを命じ、全員でガンバロウ三唱して解散した。

反対運動は村を巻き込んだ。療養所の建設に反対する村長、村職員、村議員は総辞職を決行するとともに、税金の不納運動にまで広がった。このため県当局は吏員を四、五人を派遣し、役場で職務を代行したが、村政は混乱した。児童生徒の休校措置もあり、村全体が「異常事態」に陥った。このような中、名護警察署は反対運動の人たち百人余を検挙した。検挙された人たちは数日間、取り調べを受けたあと、釈放された。だが、主要メンバーと目された十五人の幹部は身柄を那覇警察署に移され、七十日余り、拘置されたあと、裁判所に起訴された。十五人は留置所で拘留され、検事の厳しい取り調べを受けた。この間、村民の有志は交代で那覇警察署へ出向き、飲み物や食べ物を差し入れするなど、全面的に支援した。

療養所建設反対運動は翌年の一九三二年(昭和七年)まで続いた。県当局はついに嵐山での建設を断念、離島の屋我地島に変更し、建設することになった。我部祖河の人たちは、長い拘留生活に耐えた十五人の人たち(故人)に対し、今でも敬意の念を抱いている。 十五人の中には戦前戦後、沖縄のジャーナリストとして活躍した上地一史氏がいる。上地氏は一九○三年(明治三十六年)十一月、旧屋我地村(現名護市)で生まれた。当時、二十八歳と正義感にあふれた、多感な青年だった。反骨精神が強く、一九三九年(昭和十四年)には沖縄朝日新聞記者として健筆を振るった。

戦後は羽地村助役、沖縄水産組合連合会副会長など務めたが、記者魂はさめやらず、四八年(昭和二十三年)、先輩の高嶺朝光、座安盛徳、豊平良顕の各氏らと共に沖縄タイムス社を創刊し、その取締役編集局長に就任した。六十五年(昭和四十年)にはタイムス社の代表取締役社長になり、経営者として敏腕を振るったが、七四年(昭和四十九年)九月、ヨーロッパ産業視察中にTWA航空機墜落事故に遭遇、死亡した。享年七十歳だった。 戦前、不治の病として恐れられていたハンセン病は、その後、治療薬が開発され、現在では完全に治癒する病気となっている。一九九六年(平成八年)には「らい予防法」も廃止され、回復者の社会復帰が進んでいる。しかし、まだ社会の一部に差別と偏見が残っているが、私たちはこの偏見と差別をなくしていきたいものだ。

(平成十一年十二月発行「我部祖河誌」参照)

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