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生い立ち

沖縄本島の北部を俗に山原という。自然が色濃く残る山々に囲まれ、薪や材木を本島中南部に供出してきた長い歴史がある。一九二四年(大正十三年)六月二十五日、私は雄大な自然に育まれた旧羽地村の我部祖河で、農業を営む父源清、母カマダの三男として生まれた。

羽地村という自治体の名は今はない。現在は名護市となっているが、この名護市は沖縄が本土復帰する二年前の一九七〇年(昭和四十五年)八月一日に名護町、羽地村、屋部村、屋我地村、久志村の五町村が合併して誕生したものである。

旧羽地村は沖縄本島と本部半島が交錯する湾曲する湾曲部にある。屋我地島と奥武島が浮かぶ羽地内海を抱く風光明媚な農村地帯であった。日本の観光名所の一つ、江ノ島(神奈川県在)にも匹敵するといわれるその美しさは、琉球民謡にも歌われるほどだ。

私が生まれた我部祖河は名護市の中心街から北西部に約四・五キロ離れた所にある。集落の北東部には我部祖河川が流れ、一帯は羽地田袋と呼ばれ、昔から米づくりが盛んなところとして知られていた。

我部祖河の村を興したのはナカヌヤー(仲ノ屋)の先祖の上間大主だったという言い伝えがある。伝説によると、上間大主は本部半島の北東にある古宇利島のウフェーク家に生まれた。そこから伊平屋島に渡り、暮らしていたが、しばらくして国頭間切の宜名真に渡った。しかし、すぐまた源河村に移り住んだ。上間大主はそこに落ち着くこともなく、真喜屋村に移り、暮らした。そんな時だった。ある日、村の多野岳に登り、周辺を見渡したところ、今の我部祖河辺りに大変いい土地が見つかった。そこで上間大主はそこを安住の地と決めて移り住むことになった。それが我部祖河の始まりだという。そのような経緯もあり、集落には上間性を名乗る人たちが多い。

名護市の統計によると、我部祖河の人口は明治十三年には一○一戸で五百三十七人いた。昭和十四年には一二七戸、五百五人となっていることから私の子供時代も集落の人口は百戸前後で五百人ぐらいだったと思う。

私が通った羽地尋常高等小学校は隣の集落の振慶名にあった。家から約二キロぐらい離れた所にあり、歩いて二、三十分かかった。私の小学校時代は、どこの家庭でも自給自足の生活が普通だった。ただ水田が多かったので、米がたくさん採れた時には名護の町へ米を売りに出掛け、金に換えていたことを覚えている。要するに米は換金作物だったのである。このため日常の主食はサツマイモだった。朝、昼、晩芋を食べた。米はたまに食べる程度だったのである。家が農家だったので、学校から帰った後は、草刈りをするのが日課となっていた。集落では子供が鎌を持ち、近くの山で草刈りをして家業(農業)を手伝うのは、ごく自然のことで、どこの家庭でも見られる姿だった。

小学校へは裸足で歩いていった。履く靴がなかった。あのころは私だけでなく、ほとんどの子供たちは裸足で通学した。集落の友達五、六人と連れ立って、おしゃべりしながら通ったものである。現在見られるような路線バスというものがなく、行き帰り裸足。難儀で不便だったが、友達と楽しく語り合いながら通ったことは、今振り返ってみると、懐かしい良き思い出としてよみがえってくる。私の記憶では同じ集落の同級生は男が四人、女が三人、計七人だったように思う。

朝は大体七時ごろに起床した。朝ご飯を食べ、登校の準備をして家を出るのは午前八時ごろ。それから二十.三十分かけて学校へ行く。授業時間は一日五時間ぐらいだった。授業科目は国語、算数、理科、社会(歴史)、体操などだった。また特異な科目として農業の時間もあった。野菜や芋など作っていた。家の草刈り作業は学校から帰って来てからやった。勉強はあまり好きではなく、よく遊び回ったものである。私のあだ名は、頭の毛が時計の針と反対方向にグルグル回っていたので、「ムコーマキー」と呼ばれていた。学科の勉強より体育、その体育より遊びが好きだった。

私達は集落内にあったムイグヮー(小高い丘)に登り、高跳び、幅跳びなどして遊んだ。もちろん、遊び道具は家から角材や釘など持ち出し、自分達で作った。高跳びのつい立ては高さが一八〇センチぐらいはあった。当時はいろいろなオモチャも自分達で作り、それを使って遊んだものである。本当に勉強は二番だった。純粋無垢な学童期だったように思う。母親の栄養管理も行き届いていたのか、小学校時代は、これといった病気にかかったこともない。病気とはいえないが、たまに風邪をひく程度だった。「遊び好き人間」という意味では私は「ウーマクー」(したたか者)だったかもしれない。

学校の先生と言えば、まだ記憶に残っているのは女教師の屋部先生だ。同じ教員の金城清徳先生と結婚し、金城性を名乗っていたが、我々子供達は結婚後も「屋部先生」と呼んでいた。清徳先生には小学六年と高等一年の時にお世話になった。また高等一年の時には平敷先生にも教えてもらった。

私達子供は学校から帰って草刈りするのが日課となっていた。牛や馬の飼料である草刈りをした後、ムイグヮーへ行って遊んだものだ。

当時、農家では牛と馬は農耕用に飼っていたが、私の家では子牛を仕入れ、これを四、五ヶ月ぐらい育てて売りに出していた。この畜産も我が家の一つの収入源となっていたようだ。畑ではサツマイモ、ジャガイモ、お茶など栽培していた。田んぼではもちろん、米を作っていたが、家族で食べる程度のものだった。
米が多く採れた時には名護の町へ売りに行っていた。

しかし、米は毎日は食べられなかった。主食は芋だったので、米のご飯が食べられる時は子供ながらに嬉しかった。そういう意味では米は貴重な食べ物だったのである。普段は蒸し芋とか軟らかいカンダバー・ジューシー(芋のかずらの雑炊)しか食べられなかった。だから、「おいしい食べ物は何ですか?」と、問われると、「ご飯です」と答えたものである。おいしいものが食べられる日は、お盆とか正月の時ぐらいだった。米のご飯も出るし、肉もある。今の人たちは何一つ不自由なく、いつでも米が食べられる。逆に物が豊か過ぎて残ったご飯も捨てたりする。戦前の厳しい食生活を体験した者からすると、実にもったいない話だ。

食べ盛りの子供たちにとって家の食事だけでは満足できない。このために近くの山で木の実を採ってよく食べたものである。ギーマとかイチゴとかヤマモモとか、いろいろな果実を採った。ヤマモモは一般家庭の庭先にも植えられていたが、我部祖河では植栽している農家は少なかった。四、五軒はあっただろうか。沖縄のヤマモモは本土のモモより小粒だが、とてもおいしかった。ヤマモモは庶民生活とも密着していた。民謡で「桃売いアングヮー(おばさん)」と歌われたほどである。

浜下り(旧三月三日)の時期には潮干狩りに出掛けた。お汁に入れて食べるアサリを、島の人達は「ミナー」と呼んでいたが、そのミナーをよく採った。

私達の小学校時代は方言札があった。国の方針で沖縄県民は方言は使わないで標準語を使うよう指導が徹底されていた。学校で方言を使っているところを見つけられると、方言札を首から吊るされたものだ。この方言札は昭和初期に徹底指導されたという。

集落内に武田薬草園がありコカが栽培されていた。人手不足だったのだろう、時々、肥やしの運搬作業などの仕事があった。日当は大人五〇銭、子供たちは二十五銭だったが、結構いい小遣い稼ぎとなった。このコカを夜通し乾燥させる仕事に就いた場合には賃金が一〇銭アップしたのを覚えている。刈り取られたコカは手でもんだあと、乾燥させ、箱に詰めて本土へ出荷されていた。

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